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作家 塩見鮮一郎 が撮影する日々の写真
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参考までに 4・27
[2024年]
☆武蔵の国府を例にあげます。場所はわかっていて、府中市。いまは赤い柱が目印に立っています。写真の奥に玉垣が見えます。鬱蒼と大木が茂るのは、ご存知、大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)です。そう、これは総社なのです。氷川神社や秩父神社など6社をまとめていて、六所宮とも呼ばれています。役所(国衙(こくが))と土地を接しいるのは、遠く関西からやってきた国司には、狼やイノシシの出没する武蔵野は身ぶるいするほど怖かったのかも。
2024-04-27 14:34
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確定備前国府 4・27
[2024年]
☆ありました。「国府市場」広場から70メートルほど北に、「備前国総社宮」(写真)がありまはた。府庁に赴任した国司は、領国のすべての神社にお参りする規定がありました。面倒がった貴族は役所の近くに、総ての神社をひと纏めにした神社を造らせました。例外もありますが、総社があれば国府あり。
2024-04-27 00:25
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ここ備中国府 4・26
[2024年]
☆府庁は国府と同じでいいです。府庁のある場所を府中ともいいます。その地名「府中」が残る土地はおおいです。備中の府中は、どこか。書類中心の歴史では、見つかりません。ただ、現在の岡山市の地名に、「中区国府市場50 」という場所があります。戸建て住宅に囲まれた広場です。隠された地名を住人が守りましたか。前の地図のポインターの場所です。
2024-04-26 14:40
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備前政庁 4・26
[2024年]
☆大化の改新の方針どおり、でかすぎる吉備国(きびのくに)は、備前・備中・備後の3国にバラされます。ヤマト政権の天智(てんじ)天皇の悪意を感じますね。律令の新制度にしたがい、各国に「国司(こくし)」が置かれ、朝廷から送られてきます。いまの県知事みたいです。備前国の政庁で執務をするのですが、その場所がわからない。伝えられる「政庁」の場所が赤のポインターで、左下のカーソルが岡山駅です。なぜ所在場所が不分明なのか。書類が破棄されたからです。(縦に流れる川が旭川、右に伸びているのがのちの百間川です)
2024-04-26 00:37
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はんちく 4・25
[2024年]
☆西門の脇の土壁を見てください。版築といい、大陸によくある壁です。日本では朝鮮式土塁だとしています。板枠のあいだに土をいれて一層ごと突き固めます。木枠をはずして出来あがります。鬼ノ城が朝鮮式山城といわれるのはそのためです。白村江から逃げてきた百済人が造りました。鉄の国・吉備には、むかしから渡来人がおおくいました。しかし主体は縄文からつづく倭人(わじん)です。古墳に眠る王は日本人です。
2024-04-25 16:03
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びぜん、びっちゅう、びんご 4・25
[2024年]
☆西の門です。再建されたもので、いつの時代のつもりか、わかりません。観光門としておきますか。ただ、城の位置だけは、動いていません。律令政治が始まったとき、吉備は分国と言われて、反対しますが、要所にいるのはヤマト政権が派遣してきた役人と武装集団です。かれらは吉備
国の中心の「吉備の中山」に直線を引き、東を備前、西を備中にします。さらに西を、備後と名付けます。無機的な、前・中・後を「吉備」の備にくっつけただけです。行政造語の地名のあじきなさは現代につづきます。
2024-04-25 00:25
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大きすぎる 4・24
[2024年]
☆鬼ノ城は堂々たる山城です。それが、この城に関する文献は見つかりません。吉備国大乱と関係しているからでしょう。勝利したヤマト政権は、吉備津彦を祀り、祖神のようなあつかいです。大化の改新後、どうも年代を決めかねているのですが、律令政治のひとつとして、国や郡や里を決定します。そのとき、吉備国は3つに分割されました。あまりにも広大な領土を所持していたからです。その上、姫路の西から尾道・三原のほうまで、瀬戸内に面しています。ヤマト政権の最重要海路を監視していました。
2024-04-24 20:12
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勉強まとめ 4・23
[2024年]
☆時系列に並べます。吉備王X代はタテツキ墳墓に埋葬された。そのあと数代は栄え、奈良風の前方後円墳に祀られた。造山古墳、作山古墳などだ。以降、いくつも残っているが、規模はちいさくなる。大きい頃は奈良に負けない。対等に娘をヤマト王に送ったりした。ときには戦った。ヤマトの王権が力をつけると、吉備征討の兵船が瀬戸内を埋めた。大将はキビツヒコという名をつけられた。吉備津を征服したので吉備津彦。本当の名は忘れられている。
2024-04-23 15:30
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太古の盛り 4・23
[2024年]
☆話がもどりました。左がタテツキ遺跡、足守川を渡って吉備の中山へ。1キロです。この1キロを直径とした円の中に、吉備の王宮があった。掘れば宝。卑弥呼と同時代からの1世紀が、「真金吹く」栄華の頂点でした。王は楯築に葬られた。巨石5基を配した円墳で、盛大な葬儀を実行した。特殊ツボに入れたのは、花か酒か。
2024-04-23 00:24
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先輩の主著 4・22
[2024年]
☆近藤さんは、楯築古墳の発見などを踏まえて『前方後円墳の時代』を著した。考古学は歴史書の挿絵ではない。残された壺や道具や住居跡や墳墓を中心にして古代史を構築したい。岩波から1983年に出た。58歳になっている。(どうでもいいことだが、わたしの『浅草弾左衛門』1巻はその翌年に刊行。当時は縄文弥生古墳などには無関心でした)。こんど、文庫になったので一読。感心して、ここに紹介しています。
2024-04-22 15:51
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