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作家 塩見鮮一郎 が撮影する日々の写真
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大きすぎる 4・24
[2024年]
☆鬼ノ城は堂々たる山城です。それが、この城に関する文献は見つかりません。吉備国大乱と関係しているからでしょう。勝利したヤマト政権は、吉備津彦を祀り、祖神のようなあつかいです。大化の改新後、どうも年代を決めかねているのですが、律令政治のひとつとして、国や郡や里を決定します。そのとき、吉備国は3つに分割されました。あまりにも広大な領土を所持していたからです。その上、姫路の西から尾道・三原のほうまで、瀬戸内に面しています。ヤマト政権の最重要海路を監視していました。
2024-04-24 20:12
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大吉備国の没落 4・24
[2010年写真]
☆戦記は破棄されたので、『古事記』も『日本書紀』も空白です。「空白の4世紀」です。
鬼城山(きのじょうさん)には、総社駅前からバスに乗るのが便利なようです。いかんせん、行ってみたくても、われは足萎えの案山子(かかし)です。テレビの百低山で見たりしています。いま残る城趾は朝鮮式の山城です。白村江の敗戦後、あわてて築城しました。わたしはそれ以前にもここに、吉備国の城があったと思います。吉備津彦のヤマト軍に追いつめられた「吉備国正規軍」はここで最後の応戦をします。
2024-04-24 01:02
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勉強まとめ 4・23
[2024年]
☆時系列に並べます。吉備王X代はタテツキ墳墓に埋葬された。そのあと数代は栄え、奈良風の前方後円墳に祀られた。造山古墳、作山古墳などだ。以降、いくつも残っているが、規模はちいさくなる。大きい頃は奈良に負けない。対等に娘をヤマト王に送ったりした。ときには戦った。ヤマトの王権が力をつけると、吉備征討の兵船が瀬戸内を埋めた。大将はキビツヒコという名をつけられた。吉備津を征服したので吉備津彦。本当の名は忘れられている。
2024-04-23 15:30
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太古の盛り 4・23
[2024年]
☆話がもどりました。左がタテツキ遺跡、足守川を渡って吉備の中山へ。1キロです。この1キロを直径とした円の中に、吉備の王宮があった。掘れば宝。卑弥呼と同時代からの1世紀が、「真金吹く」栄華の頂点でした。王は楯築に葬られた。巨石5基を配した円墳で、盛大な葬儀を実行した。特殊ツボに入れたのは、花か酒か。
2024-04-23 00:24
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先輩の主著 4・22
[2024年]
☆近藤さんは、楯築古墳の発見などを踏まえて『前方後円墳の時代』を著した。考古学は歴史書の挿絵ではない。残された壺や道具や住居跡や墳墓を中心にして古代史を構築したい。岩波から1983年に出た。58歳になっている。(どうでもいいことだが、わたしの『浅草弾左衛門』1巻はその翌年に刊行。当時は縄文弥生古墳などには無関心でした)。こんど、文庫になったので一読。感心して、ここに紹介しています。
2024-04-22 15:51
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ヤマト対キビ 4・22
[2024年]
☆箸墓古墳から北へ500メートル弱に、纏向(まきむく)遺跡があります。ここからも、特殊器台が出てきました。奈良から吉備へ伝わったか、と当時の人は一瞬考えます。近藤さんは、どうだったでしょう。やがて土器の成分が吉備と同じだと分かります。贈り物でしたか。このとき、吉備のほうが奈良よりも国力があり、土器製造技術も葬送文化もすぐれていた。と言えばどうでしょう。受け入れられますか。
2024-04-22 00:30
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古墳時代は 4・21
[2010年写真]
☆奈良桜井の「箸墓(はしはか)古墳」で、前方後円墳です。近藤さんは、この箸墓から古墳時代が始まったとしました。弥生か古墳か、時代の線引きも便宜的なものですが、なぜ円墳からとしなかったのか。すれば、楯築の円墳から古墳時代でした。
2024-04-21 15:01
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弥生を強調 4・21
[2024年]
☆発掘者に自分の名を出さないようにしてきた近藤さんが、めずらしく案内を書いた。適任者なのはまちがいないけれど。1987年か。
2024-04-21 00:31
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器台・壺の発掘場所 4・20
[2024年]
☆前出の文庫から。1986年までのデータになります。中央のヤギみたいな島は「児島」です。古事記の最初に出てくる島で、瀬戸航路の寄港地でした。製塩も盛んでした。海は楯築の近くまできています。備前・備中・備後の境が点線で記してあります。(ここで訂正しておきます。楯築遺跡は倉敷市でした。造山、岡山市。作山、総社市です)
2024-04-20 14:28
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制度と葬儀 4・20
[2024年]
☆当然、近藤さんも論じています。岩波文庫のコピーです。データはきちんとしていますが、ちょっと歯がゆい。言えばいいじゃないですか。縄文の土器を別にすれば、弥生時代では傑出した造形です。ここには、村落の共同体に支えられた権力がある。組織によって大きな円墳を造り、葬儀の式次第が共用され、その日、華麗なこの土器が飾られた。製造に関しては、設計図が引かれ、装飾デザインがほどこされた。「吉備」という国の先進性を、断定すればいいのです、先生は。
2024-04-20 00:40
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