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列石メンヒル 4・14 [2024年]

DSC03195.jpg☆のぼってみた。これはなんだ。巨石がそそり立っている。大発見だった。墳の直径は50㍍。ちいさな石は別にして、5基の石の楯。地面から垂直に置かれている。発掘は1976年から。発掘を指揮したのが、わたしの先輩でした。近藤さん。13歳年上。足利生まれ、京大卒。1950年から岡山に住み着いた。まだ吉備のことをよく知らなかっただろう。気づくと宝の山だった。生涯、掘りつづけた。反権力の反骨の人でした。

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たてつき遺跡 4・13 [2024年]

DSC03205.JPG☆すぐ近くまで宅地化されていて、全貌をグーグルマップで探すのはむずかしい。右の小山が目的地。ここを行政が古墳としない理由は、この墓は弥生時代末期、古墳時代寸前として認識する。つまり「古墳時代」ではないから。

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たてつき古墳 4・13 [2024年]

DSC03184.jpg☆足守川の西にはちいさな古墳もありますが、ここでは楯築古墳を見ましょう。行政は「盾築遺跡」として古墳と呼ばないのはなぜでしょう。調査した先生は、「盾築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)」と呼んでいます。まだ前方後円墳が生まれる前の墳丘です。

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脱線か 4・12 [2024年]

DSC03172.JPG☆脱線です。話が脱線。気になって。なぜ造山が岡山市で、作山が総社市なのか。境界を赤の色鉛筆で書きこみました。書く前は、川が市境かと想像していましたが、そうではないようですね。明治維新後の官僚はなにを参考にしたのか。脱線、意味なし。スミマセン。

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作山全景 4・11 [2024年]

DSC03162.JPG☆西国街道から見える大古墳。王のために土盛りしました。長さ造山360㍍に対して282㍍です。全国10位。どちらも前方後円墳です。おなじ一族と考えるのが普通でしょう。作山古墳のほうが、造山から何代か後になります。「吉備国(きびのくに)」の王族です。5世紀前半、まだ統一政権は倭国にはなく、群雄割拠です。

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作山古墳 4・11 [2010年写真]

DSC03157.JPG☆読みは造山と同じです。つくりやまこふん。話すとき区別がつかないので、「ぞうざん」と「さくざん」と区別します。造山との距離は2キロ。写真の下の方に矢印が見えますが、西国街道(旧山陽道)です。右へ2キロで「ぞうざん」。くどかったですね。作山は総社市になります。

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造山古墳散策 4・11 [2024年]

DSC03170.JPG☆見えているのは、後円墳の丘です。背後の前方墳の端まで散策できます。こんな巨大な丘を、田をつぶして人力で造ったのです。堺の大山陵(伝仁徳天皇墳墓)と同じ時期ですが。どちらが先にできたか。こことの交流はありますから、大きさを意識していたかも。

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造山古墳 4・10 [2024年]

DSC03169.JPG☆少し退屈ですが、ふたつのデカ古墳の概略です。つくりやま古墳。人が造ったので、造山。長さ360メートル。全国で4番めの大きさです。5世紀前半。葬られた王は、「空白の4世紀」を生きた人です。岡山市の西のはずれになります。

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いよいよ本題 4・10 [2024年]

DSC03077.jpg☆ここが、吉備王国の本拠地です。足守川から「吉備の中山」までの地図上の空白地。いまは田が広がっているだけで、未調査の土地。瀬戸内海の水が後退して陸地があらわれます。縄文時代ではタダ同然でも、稲作になると、水田の最適地です。平地を気ままに流れていた足守川を管理します。田がひろがり、豪族が誕生します。親分が亡くなると川の西側に葬られました。造山古墳と作山古墳から考えましょう。盾築(たてつき)の方が古いのですが、それはあとで。

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足守、落涙 4・9 [2024年]

DSC03045.jpg☆少年はここに疎開した。母はわたしを祖母に預けて岡山市内に戻った。足守駅から北に2キロが中心地。廃藩置県後、一時、足守県が置かれたのを思えば、江戸のころはすこしは栄えていたのだろう。備中高松城の水攻めに、秀吉はこの川の水を使った。

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